2020年4月19日日曜日

自分さん24 私は存在しない。なぜならば、すべてこそが私だからだ。

35:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:tLCV73ZW 
 
ダグラスハーディングが解読したように、
本来の自分と思っているさらにゼロメートル地点での捉え方や
私が日頃話している、自分以外のすべてが自分である、
青とは青以外の色の以外である、というような
スピリチュアルではよく表現されるそれらの解法だが
もっとわかりやすくすればこういうことだ。

あなたがこれまであった出来事を思い出してほしい。
どんな小さなこともでもいいが、つまりそれまで生きてきた人生そのものが
出来事の集大成だろう。
2日前にコンビニで傘を忘れてアタフタした瞬間があったかもしれない。

では聞くが。

2日前のコンビニの出来事が消えたら、あなたは何を経験していたのだ?
おや?と思うだろう。何も経験できないのだ。そこには何もないからである。

過去の人生、受験でも親でも趣味でも、喜びも悲しみも
それら出来事が消えてしまったとき、あなたはそこに存在できない。
なぜならば「あなたを示す対象」がないからである。

出来事があり、それを体験し感じているあなたがいるが
つまりは出来事こそがあなたなのだ。


見えているもの、聞こえているもの、それらすべてがあなたなのだ。
それらがなかったら、あなたは「ない」のだ。

あなたは日頃、見聞きしている「出来事」である。
つまり「いま」である。

「いま」とは、あなたをノンフィルターで感じられる境地のことだ。


37:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:tLCV73ZW

手放しの法則も、マネゲのプロセスも執着を捨てるための手段だ。
なぜ執着を捨てるのか。
それは「いま」を感じられるようになるためである。
すべてから執着を捨てた状態を「イメージ」してみたらいい。

リンゴを見ても、それをリンゴと解せず色や形も捉えず
ただ波動を感じるだけだ。
もちろん、記憶の残像など微塵もない。不安も悩みも希望も嬉しさもない。
ただ、波動の中に、波動が調和する至福があるだけだ。

その「状態」があなただ。


38:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:tLCV73ZW

親でも兄弟でも恋人でも、身近にいる人に対して
「あれ?この人誰?」と忘れてみなさい。
本当に忘れるのは難しいが、
忘れたと仮定した視点で相手を観ることができるだろう。

そのとき、何らかに気付けるはずである。


39:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:tLCV73ZW

執着とは、思い込みや概念のことである。
つまり執着を捨てると過去や未来が消え去り純粋なゼロ地点の「いま」が姿を表す。


41:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:tLCV73ZW

すべては波動である。
波動が常に生まれ過ぎていく。

我々の脳、いや脳の「記憶」という名の翻訳機は
それら波動に勝手な翻訳を与え認識する。

ある波動に対し
「これは私のワイフだ。私のワイフは小柄で髪は長くルックスはこうで‥」
またある波動に対し
「請求書、これは私を蝕むものだ。悩ませる。困らせる」

我々は、脳の外側というものは
本当はどういう世界なのか知る術はない。
あくまで五感から各神経を通った刺激により浮かび上がった「像」を
観たり感じたりしているだけなのだ。

実際には歩いてもいないし、疲れてもいない。
ただ、「いま」を通じて感じられるのは、
それらがただそこに在るだけという、色も形ないもの。
しかしエネルギーのようなもの、だから波動としておく。

そしていつも書いている通り
それら波動を感じて、脳は自らのポジションを確立する。
つまりそれら外部的な要素こそが、自分ということになる。

だが!
それすらも本当は誤りなのだろう。
「脳」も「外部」もないのだ。

ただ波動があり、その中で分離が生まれている。


42:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:tLCV73ZW

さて、そこまで行ってしまうことが目的であれば構わないが
この「脳」が勝手に自己都合的に翻訳した「好ましい像」に囲まれたいのならば簡単だ。
翻訳機のデータベースを変えれば良い。

貧乏が幸福で
辛いが嬉しいなどにすればよいのだ。
だがそれは置き換えているだけなので、また苦しみが訪れる。

つまりは何事にも囚われなければ良いのだ。

「私に起こっている出来事のぜーんぶが、私なんだ」と理解しなさい。
全部あなたなので囚われることはない


45:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:tLCV73ZW

我々は子宮から生まれ、そして死で終わると教えられている。
だがそれは単に「そのように」教えられたことであり真実ではない。

生も死もないのだ。
波動のサイクルがあるだけで
そこには生も死もない。
脳の記憶という翻訳機が、生があり死があると思い込んでいるだけだ。
音波を見てもわかるが、周波数は上下動を繰り返す。

これが宇宙の法則などと名付けられていたり、
この世界に「周期のようなもの」が常々存在している理由である。
だが「周期」などもあくまで「記憶装置」の翻訳によるものなので
実際は何なのかわからない。

いま私が「それ」に対して疑問を持ったから「それ」が存在しているだけだ。
さっきのコンビニの話の逆バージョンである。
このように、それぞれが、その相手を生み出す。
それが世界のカラクリである。


では、この脳内世界でどのように生きればよいのか。
答えはひとつだ。

好きなように生きなさい。


44:名無しさん:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:xIynm0cl

>>41
脳の外側が分からない?

では、どうして共通の認識を持つことが出来たの?

みんな赤を見て「赤だ」ってわかるじゃん。
万人が共通の認識を持つことが出来るから
脳内だけではないんじゃないの?

ちゃんと「外の世界」もあるんじゃないの?



46:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:tLCV73ZW

>>44
>みんな赤を見て「赤だ」ってわかるじゃん

それはあなたの認識だ。
あなたの眼球が赤を感じても、同じ色が他者からは、あなたにとっての緑かもしれない。

だが、ここで話しているのはそういう概念的な話ではなく
もっと包括した内容だ。


47:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:AOg4AFRc

つまり、あなたも私も、他者であり共通の世界があるから、同じ認識があるのではなく、
ひとつの波動なのだ。ひとつの中で、勝手に分離した錯覚に陥っているだけだ。
だから共通の認識がうまれる。


48:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:AOg4AFRc

シンクロニシティも、偶然も、他人が同じものを見る、も、当然といえば当然だ。

なぜならば、すべてひとつの波動の内部だからだ。
あなたの体内に60兆の細胞があり、それぞれがまた細かく分割されている。無限だ。
だがあなたという「空間」があり、あなたも地球や宇宙という空間の一部だ。無限だ。

凶悪とか奇跡とか、金持ちとか貧乏とか、あなたとか私とか、
実体はひとつだ。


49:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:AOg4AFRc

自殺をすれば報われないとか、カルマとか
スピリチュアルとか、幸福とか、ブスとか100人切りとか
それらはすべて、我々の脳が勝手に作り出したイベントみたいなものである。
すべてのものは、嘘だ。デッチ上げである。

なぜならば、ただ漠然と波動があるだけであり
脳が自らのポジションを確立する為に、その対象を作る。
その対象が「それ」である為に対象を作る。これが因縁生起だ。

つまり原点である、脳が渇望する「ポジション」を放棄すれば
自ずと波動に調和するのである。つまり認識できない「それ」である。


52:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:AOg4AFRc

「私は存在しない。なぜならば、すべてこそが私だからだ」

常にこの法を唱えよ。
アイデンティティを捨て去りなさい。

もっとくだけて言えば、
常にあなたに起こっている周りの出来事を優先しなさい。ということだ。

あなたが早く家に帰ってゆっくり風呂に入りたくてもだ。
あなた自身わき起こるエゴイスティックな感情など素通りしなさい。
あなたは世界のためにある。世界があなたである。

そうすれば人生に自然なサイクルが感じられるようになるだろう。
本当の意味でね。
それはなってからのお楽しみ。


54:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:AOg4AFRc

ある波動の中で分離された「私」は「共有、肯定」だ。
同じように、同じ波動の中で分離された「あなた」は「否定」なのだろう。

これは私からの視点ゆえに、私こそが否定だ。
そして私からの視点ではあなたは、私が肯定である。
つまり、どうでも良いことだ。

大人から見た、小学生の小競り合いのようなものだ。
小学生を超越した立場の視点でみれば、小学生のどちらも正しいし誤りであるが
ただ「小競り合い」が在るだけだ。
しかし小競り合いすらも、大人というバックボーンには消失してしまう。

どうでも良いことだ。

あなたが私に関わる以上、執着である。
私などどうでも良いことに気付きなさい。

そして私も気付くのだ。


56:自分◆3wwHKM8d6k:2013/07/23(火)NY:AN:NY.ANID:AOg4AFRc

仏陀は世間に執着をしていたのか。
なぜ生き続け、伝え続けたのか。

キリストも、現代の覚者たちもなぜ書物を残してまで伝えるのか。
それは執着か。
無論執着だ。

現世の我々が根源とする彼らに執着がある。
先日も書いたが、彼らは生きた。飯を食い睡眠を採った。

なぜか。
ワンネスを知れば必要のないことだ。
そしてすべて己であれば、伝えることなど意味もない。
だから釈迦は迷ったのだ、伝えるべきか、そうでないか。

ちなみに書くが、執着する瞬間も人生の素晴らしい経験である。
実際は執着などないからだ。脳がそのように認識しているだけである。


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