327 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:CMfnhK/x
あなた方のすべてが正しい。
なぜならば、各々が死を迎えたとき
自ら主張が人生のすべてであったと悟るからだ。
それはあなた方にとってそれぞれが大正解なのだろう。
つまり自らの思考、執着が人生という幻を形成している。
348 :名無しさん:2013/09/01(日) 11:19:04.61 ID:sXbio5cZ
自分さんへ
あなたの言うことや、不二一元論については、知識としては解った。
ただ、直接経験として【在る】を経験できていない。
すべてが制御できない、それはわかったのです。
それは最初、驚きと同時に虚無感がありましたが、
今は、自由な心持と、そして、ほのかな喜びがあります。
(もちろんマインドは幻想ですし、それは制御できるものではありませんが)
同時にこの現実と呼ばれる幻想も急速に落ち着きを見せました。
やはりすべては恩寵なのですか。
なにか、言葉をください。
349 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/01(日) 23:06:43.13 ID:leRbJ12+
>>348
何を望んでいるのか?
あなたはすでにすべて得ているだろう。
それに気付きなさい。
350 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/01(日) 23:10:33.88 ID:leRbJ12+
一枚の紙に、あなた、家族のそれぞれの名前、
学校なり会社なりの知り合い、あなたの好きなこと嫌いなこと、
そういったことを書き連ねなさい。なんでもあなたに関することを書き連ねなさい。
そこで私が質問をしよう。
「あなたはどれだ?」
351 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/01(日) 23:38:39.61 ID:leRbJ12+
>>348
答えは「紙」だ。
紙そのものが、あなただ。
家族も、好き嫌いも、知り合いも、自分自身ですらも
すべてあなたは含んでいるのだよ。
すべて「あなた」の中に在る。
352 :名無しさん:2013/09/01(日) 23:45:48.79 ID:oZJugGbA
>>351
横ですが、どうか私にも御教授ください。
どうして自我をもたされたのですか?
ただ抵抗にしかならないのなら、最初から自我など
もたせなければよかったと思ってしまうのも
その紙の存在を強く実感できないからですか。
355 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/02(月) 09:16:38.18 ID:bs0G26vG
>>352
日頃聞こえてくる音(人の声や環境音、動物の鳴き声、車の通る音などすべて)
肌に伝わる感触(気温や湿度、触ったときの感じなどすべて)
目に見えるもの(色や形、そこから発想する印象、かっこいい、柔らかそうなど)
そういった、常に感じているもの、それらは「すべて同じもの」だ。
つまり、音でもなければ湿度でもない。色もなければ形もない。
ただそのように「言葉」でカテゴライズさせ、
「それはxxというものである」という記憶から
認識を与えているだけのことである。
実際は表現不可能な何かである
(SF的な意味ではなく、単に言葉を与えないから表現できないだけだ)
上のほうの書き込みでスピリチュアルはSF的だ、という内容を見たが
そのように認識すればそうなのだろう。だがすべての「実際」は
「言葉を与える前の何か」があるだけである。
身体にまとわりついている(ことにしている)「これ」を「湿度」としよう、
そして「じめじめ」という印象を発想を持つ(これが自我だ)
耳を澄ませば、おっと部屋の換気扇の音が聞こえていることに気がついた(ことにしている)。
これはもともとの「何か」を音として認識を与えている。与える前は「音」ではない。
言語化により音としてカテゴライズされる。(続く)
356 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/02(月) 09:19:03.16 ID:bs0G26vG
>>352
さて、自我がなければ真我は存在しない。これの意味はわかるね。簡単な二元論だ。
だが自我も真我も言葉でカテゴライズされた単なる「経過後の変化したもの」である。
自我を捨て去れば、真我も存在しなくなるだろう。
つまりすべてどうでも良いことに気づくのだ。
執着を捨てよと覚者は伝えるが、すべてが「何か」の変化であることが見えれば
執着をすること自体ができなくなる。
自我なあなたに聞こえる「音」も、
音そのものがあなたであるということを知れば
二方向から「音(らしきもの)」を捉えることができる。
つまり「聞こえる」という「状態」自体を捉えるのだ。
音の発生源など存在していないことがわかるだろう。
そしてその「聞こえるらしき何か」は消滅する。
目の前からすべてを消し去ることがなど他愛もなくなるだろう。
また思想も感情も、音や気温、モノと同じように「それらしき何か」である。
つまり全部同じものだ。それ自体そのものが、自分であり
そのものである自分を、自分が感じているだけのことだ。
そうすればそのものの「存在は理由を失う」のだ。
357 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/02(月) 09:33:24.74 ID:bs0G26vG
以前にも書いたが、時間はあなたの見ている世界の中には
存在しているように見えるが、あなたには存在しない。
時間がないということは、距離など空間も認識ができない。
だからあなたが歩くという行為は、あなたが動いているのではく
周囲の風景(のように見える何か)が、動いている(ようにみえる)のだ。
先にも書いたが、風景もモノや気温などと同じく、もとは同じものだ。
あなたは存在している。ただ在るだけだ。
生まれてもいないし、死ぬこともない。在るも生死も、それらは言葉だ。
実際はそういうことではないが、言語化しなければ伝えられないから矛盾が起こるだけのことだ。
ダグラスハーディングの著書で最も素晴らしい一文を書いておく。
「驚くべきなのは、私がまったく何の理由もなく存在しているということである」
理由を求めるから理由が生まれるのだ。当然見つからない。
彼は生きながらの死を提唱している。生きながらの死とは自我の死だ。
ロバートも同じことを伝えている。
自我を捨て去るとは、常に我々を包んでいる「何か」を捉えることだ。
その何かこそが、私である。
これはSFではない。
単にそれが何であるか知らない赤子に戻った世界がそれに近い。
358 :名無しさん:2013/09/02(月) 10:21:54.51 ID:HkPwOlee
>>355
ありがとうございます。
ですが実感となると日常で仕事しながら可能なのでしょうか。
今は、学校と就職活動でフリーな時間が与えられてますが、
フルタイムといけば今のようにはいかない。
説明会行った時につくづく実感したけれど足が痛い、
このように痛いとかではなく、言葉にしなくとも
強烈な不快感を足に感じてました。それを言葉で痛くない、
痛くないと頭でいっても痛みはなくならなかったし
深呼吸で冷静さを取り戻し、説明会担当者の話は聞く事は出来たけれど
頭の中は痛い痛い、ガンガンガン、不快不快ばかり。
どうでもいいと思うのでなく感じるのは果てしなく遠い作業に思えました。
仕事となると見積書も請求書も領収書も作成しなければならない。
納期もあるし今の事だけに集中できない。
他人を他人と意識してコミニケーションもはからねばならないし、
ただ一つの与えられた仕事だけに専念してたら今の時代すぐに役立たずと首になる。
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