さて少し難解な話をしようか。
自分の体とは、あくまで「世界」を堪能するための装置のようなものだ。
つまり世界を知るために、あなたは生まれてきたのだ。
これは人間も蝶もエビも同じである。
なぜ世界を堪能する必要があるのか。
それは例えれば、あなたが美容室に行ったとしよう。
新しいヘアースタイルにトライしてみたわけだ。
あなたはそれがどれほどの美しさか、かっこよさか、可愛さか、
とても気になるわけだ。
ではどうやって、それを知るのだ?
もちろん他人の評価となる。
「あ、髪変えたんだ、可愛い!」と言われればあなたは大満足だろう。
ただそれだけのためにあなたは生まれ、人生を生かされているのだ。
まずそれを理解しなさい。
では一体「誰が」自らを知りたいのか?
それが「意識」やら「神」などというものだ。
つまりあなただ。そして私だ。
元はひとつなのだ。
自らの「可愛い!」を知りたいがために
他人なるものを作り出し、物質を作り出し、出来事を常に量産している。
ふふふ。このように書けば比較的ライトな受け取り方ができるだろう?
857 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/22(日) 02:12:51.33 ID:rKYNQxf/
話を続けようか。
「意識」というものがある。ひとつしかない。
そこから様々なものが生み出される。
あなたもそうだし、他の人々、物や日々の出来事もそうだ。
だが、元はひとつだ。
だから我々はコミュニケーションが取れるのだ。
そして思い耽ったり「想像」ができるのだ。
世界とは単に「意識」が作り出した箱庭でしかない。
箱庭の中のすべては、空想や想像で事足りるのだ。
そして「意識」こそがあなたであり、私である。
目の前のテレビですら、プラスティックですら、あなたなのだ。
さらに言えば、あなたが歩けば風景が変わるが
その「変化」すらも、あなたなのだ。
指が動く、それもあなただ。
あなた自身を「見ている」だけなのだ。
だから人生に何も苦しむ必要もないし
たとえそれが「苦」に見えても、それ自体が
あなたであるから、そのまま受け入れればよい。
人間的に何かを「失う」経験をするかもしれないが
実際は何も失っていない。ハズレもアタリなのだ。
858 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/22(日) 02:19:32.64 ID:rKYNQxf/
次に行動について解釈する。
日々は行動により移り変わっていく。
行動とは何か。
それはあなたの意思ではない。
そう思い込んでいるだけで体が勝手に動いているのだ。
あなたは「動いた後」でしか、それを知ることができない。
以前も書いたが、指よ動け!と頭で念じてみなさい。
動かないだろう。
だが実際に指が動いているとき、あなたはそれを見ているだけなのだ。
つまり、我々は次の行動が一体なんなのか、何も知らないのだよ。
ここで言う「我々」とは思考=エゴのことだ。
幻である。自分自身がすでに幻なのだ。そんなもの、ないのだよ。
ではその幻はなぜ、幻として体感できるのか。
それは「意識」があるからだ。
意識がそれを見ている。幻を生み出し、幻から見た世界を経験している。
最近は秋晴れで雲一つない青空が広がっている。
まるで世界を包み込んでいるかのようだ。
例えるならばそれが「意識」である。
859 :名無しさん:2013/09/22(日) 08:08:35.18 ID:ndMdem2U
想像は完全にマインドのものだよ。
そして幻想そのものだと言える。
想像に捕らわれる限り幻想からの解放はないだろう。
想像する事は偽りを見ることだ。
良いイメージであれ悪いイメージであれ幻想を見ているだけだ。
860 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/22(日) 09:48:52.20 ID:rKYNQxf/
>>859
上のは少し難解な話だ。
想像力どころか「いまにある」も五感もすべては
脳内の錯覚なのでマインド、いや、単なる事象でしかない。
問題は、その「想像」はどこからやってきたのか、
とうことを私は書いている。
何もないところにそれは浮かんでくるだろう。思考も同じだ。
さらに言及すれば、あなたが右を向いたときに
「右」らしき視界が突如浮かんでくる。
つまり、常に何かを作り出している。
いや、常に何かが作り出されており
我々はそれを受け取るしかできないのだ。
もはや、マインドがなんだとか
そういう話は何の解釈にもならない。
私から見れば、逆にその解釈に囚われているだけにも見える。
般若心経について様々な解釈が古来よりされてきたが
簡単に言えば「人生に特に意味はない」ということなのだ。
意味を求めるから苦しいのだ。
「それはマインドだ!」
そうあなたが唱えたところで、それは一体何かね?
先日も伝えたが言葉に内容はない。
ただ「それはマインドだ」という絵柄があるだけだ。
862 :名無しさん:2013/09/22(日) 10:37:41.14 ID:ndMdem2U
想像はどこからかやってきたものではなく、
脳内で創られたものだ。故に全て幻想だ。
何もないところには浮かんでこない。
既にある記憶を元に創られるのだ。
マインドで創られたものは実体を持たない幻想そのものだ。
しかし「在る」事はマインドを超えている。
マインドが停止した熟睡状態においても間違いなく「在る」のだ。
「気づき」とは主体がマインドの意識ではなく、
存在として「在る」状態に移行した純粋意識の事を指す。
863 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/22(日) 12:44:58.92 ID:rKYNQxf/
>>862
ほうそうかそうか。あなたがそう思うのならばそうなのだろう。
だがよければ、ひとつテストをしてみないか?
有名なテストだ。
いま、何でも良いから何か頭に浮かべてみなさい。
何でも良い。ラーメンでも海でも猫でも歴史でも。
とにかく一番最初に浮かんだものが、今回のテストでは必要なのだ。
さて思い浮かんだかな。
それはコケシ人形か?
たぶん違うだろう。
では訪ねよう、思い浮かんだのはなぜコケシ人形ではないのだ?
あなたは
>想像はどこからかやってきたものではなく、脳内で創られたものだ。
と言った。その「創られた」とは一体なんだ?
たまたま目に留まったラーメンの袋を見て「ラーメン」かもしれない。
それどころか、私に問われてそれに答えている。
つまりあなたの意思などないのだよ。
あなたの記憶が引き出されるとき、そのトリガーとなる出来事がある。
あなたが自分で作り出し、そのあなたのいうマインドとやら
結局は脳内で創っているのではない。
>何もないところには浮かんでこない。
何もないから浮かんで来るのだ。
例えばあなたの中心に音はない。だから音が聞こえるのだ。
あなたが音そのものであるとき、音は聞こえない。
あなたがマインドなど、その段階の話をするならば
たぶん、もう少し理解が必要かもしれない。
864 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/22(日) 12:51:44.73 ID:rKYNQxf/
我々が日頃「脳内で想像している」など当たり前と思っていることが、
実はとんでもないメカニズムだったと知るとき、
すべてはひっくり返るだろう。
見るという行為も、そもそも一体なんなのだ?
なぜ見なければならないのか。なぜ聞かなければならないのか。
では、それら以上の行為がないのはなぜか。
ある制限枠があるのは確かだ。
それは人間ゲームとしてのルールみたいなものだろう。
だがそのルールとて、我々がそのように思い込んでいるからそうなのだ。
見る、それがとんでもないメカニズムだったと知るとき
聞く、それがとんでもないメカニズムだっとと知るとき
すべてひっくり返る。