2017年5月27日土曜日

自分さん06 「何かが配置される」ことで、そのスペースが同時に発生するのだ。

871:名無しさん投稿日:2013/06/16(日)14:34:11.10ID:Zew8AmhK[1/1回]

第一期のロバートは、プラス思考ならプラスの出来事が引き寄せられるという引き寄せ理論を
インナーCEOというような造語を使い、さも独自理論のように語っていた。

一時的にうまくいったが、破産や離婚を経験し、意識的にプラス思考にしようとしても
引き寄せ現象はコントロールできないと悟った。そこで、プラスとかマイナスという価値観を離れ、
心の歪みを矯正するメソッドを考え出し、脱出できたと思い込んだ。

ところが、脱出したはずなのに、網膜剥離が起こるとか、破産するとかの不幸が続き、
心の状態と引き寄せ現象の間にはなんの関係もないと気付き、
幸運も不運もすべて受け入れようなどと宗教まがいのことを言い出した。

引き寄せ現象はあるが、勝手に起こるだけで、人間にはまったくコントロールできない。
不運を受け入れようが、拒否しようが、まったく何の関係もない。
これが事実だ。



873:名無しさん投稿日:2013/06/16(日)16:18:36.88ID:E+hVA5GJ[2/2回]

結局水の流れるように生きているとき、人は自由を感じるのだろう。
執着しないこと、目の前の状況や他人を自分の思い通りに
どうにかしてやろうと思って躍起にならないことだ。

絶望に打ちひしがれることでそのことを悟る場合もある。
だから運命は変えられるとかコントロールできるとか言って夢()に向かって
がむしゃらに頑張るのも長い目で見れば悪いことではないのかもしれない。
昔の人はそういうのを若気の至りと言った。


853 :名無しさん:2013/06/16(日) 12:44:25.49 ID:iQkRe/T4

観念は自ら作ったものだから自ら変えられる。
とはいえ現象自体を自分の思い通りに変えられるわけではない。
変えられるのは意味付けの方。


854 :名無しさん:2013/06/16(日) 13:06:26.38 ID:bpAFs/JP

>>853 
なるほど。60代になった姿は変えられないが、60代になっても
10代のような遊びが出来ないと思う必要は無いということですか。

しかしいつまでも若い感性を保ち続ける事は素晴らしい事だけれど、
一歩間違えると、10代の頃の幻想にしがみつき似合わない
ファッションなどに身を包むと単なる痛い人であるし。
強調や和を望むなら、ある程度、個を殺す必要もあるし。
変えられないものと変えられるものを見極める事が難しいものです。


875:名無しさん投稿日:2013/06/16(日)23:40:38.82ID:5PB2ObSz[1/1回]

>>854
でも、こうも考えられる。
パラレルワールド的に見れば、60代の自分も10代の自分も、同時ここに存在してたりして。
で、仮に自分が今30代だとすると、60代を選べば、60代までの記憶を持った世界に行き、
10代を選べば、10代までの記憶を持った世界に行く。
しかし、どちらも、以前いた世界の記憶が無い。

つまり、次元波動の違いにより、波長(波動)の違う記憶は移行できないかと!?

では何が移行したのかと言うと、何も移行してない。
そこには、全ての次元を包括した、同じ自己意識の連続性(連続体?)があるだけ。
今の自分(30代)も、自己連続性の一部で、自分が今ここにいるという思いも、
連続性から個として切り取られた観念なのかも。



885:名無しさん投稿日:2013/06/17(月)12:38:19.93ID:6e5FOdwW[1/1回]

>>875
それは>>753
つまり我々が認識するいわゆる「未来」は「過去」を包括する。
だから未来の視点から見れば、それ以前はすべて同時進行となる。
よって未来も過去もない。

ただ、我々が「不思議」とするものは、なぜ「不思議」なのか。
しかも「不思議ではないこと」を、我々はどういう根拠で「不思議ではない」としているか、
それは「不思議とするもの」と同じレベルである。

すべては我々の認識上で、不思議やら当然やらを決定しているが、
禅問答のように、「質問」こそが「答え」であり、
ただ、「質問」が存在しているだけである。

だから答えはいかように答えられるし、
つまり答えはないともいえる。

スピリチュアルや精神世界は嘘である。

ただ「スピリチュアルや精神世界は嘘である」
この文字があるだけだ。

HTMLでは#FF0000はweb上では赤として表示される。
それがどれだけ鮮やかな赤に見えても、どれだけ醜悪な赤に見えても
実際は単なる#FF0000があるだけである。

そして、どれだけ#FF0000に議論や疑問を与えても
HTMLという枠組みを超えることはできない。

あなたが目の前に白い紙に#FF0000と書いてもそれは単なる#FF0000だ。赤ではない。


886:名無しさん投稿日:2013/06/17(月)12:49:03.26ID:tvmbz+yX[1/1回]

確かに超常的な現象はある。
結果的にシンクロニシティと呼ばれるものもそうだ。

だが、空気ひとつをとってもみても、見ることも触れることも
できないのにそれがあることをなぜか理解している。
これほど不思議なものはないだろう。しかし不思議ではないのだろう。
つまりすべては、勝手な自己認識の上での話なのである。

HTMLで#FF0000を青にしようする = 現状をガラっと変えて幸福になりたい

ではあなたの中で#FF0000を青とすれば良いだけなのだ。
そうしていろいろ概念を変更していけば、
いずれ#FF0000という単なる文字列があるだけと気付く。
つまり概念の先にある「それ」に気付くのだ。
すると#FF0000があなたの世界で情報を持たなくなり

そしてHTMLが崩壊する。


893:名無しさん投稿日:2013/06/17(月)17:59:51.72ID:CFZx3+Z2[2/6回]

共時性はたまに起こる。でもあんまり特別視してない。
結構、どうにでもいいものにしか起こらないし意識して起きたこともない。v 一番、よかったの抽選5名のipod当たったくらいかな。

だけどそれはマネゲ読む前、子供の頃
なんとなくヤマが当たって100点とれたとか図画で賞状貰えたとか
子供びいきで商店街の自転車当てたとかと、どう変わるか解らない。
子供の頃はツイてると読んでマネゲ読んでからシンクロと呼び名かえただけかも。

揶揄してるわけでも馬鹿にしてるわけでもなく、見えないものが見えだしたら怖いな。
青が見たくてHTML破壊ならマゾや色盲とどう変わってくるのかもいらぬ心配だけどしてしまう。
皆と同じ価値観の元、物理的にちょい幸せ望んでたのに、病院行きや出家いきは悩むな...。

今、仕事いってるから余計、そう思っちゃうのかもしれないけれど
常識は捨てず100点目指さず60点目指して大金持ち望まず年一回の旅行望んで
こつこつ毎日楽しむってオーソドックスに気付かす為に旅にださせられたのかなと
思ってきた今日この頃。



895:名無しさん投稿日:2013/06/17(月)18:30:41.78ID:Wk4sOpFh[1/1回]

>>893
>結構、どうにでもいいものにしか起こらないし意識して起きたこともない。

私はあなたのその言葉の中に、神秘と知性を感じるよ。
なぜ「どうでもいい」「重要」を問わず、
あなたの直接体感する世界の中で「起こるのか」。
そしてそれらはなぜ「意識せず起こる」のか。


894:名無しさん投稿日:2013/06/17(月)18:11:22.56ID:oXVj5u0L[1/2回]

>>885
HTML破壊であればいいけど、経済的壊滅、
家庭崩壊し始めたんですけど、これでよろしいでしょうか。

すべて自作自演でわっはっはーと笑い飛ばせばいいですね。
病院行かなくちゃw。



895:名無しさん投稿日:2013/06/17(月)18:30:41.78ID:Wk4sOpFh[1/1回]

>>894
>HTML破壊であればいいけど、経済的壊滅、家庭崩壊し始めたんですけど、これでよろしいでしょうか。

あなたがその状況に悲観しているのならば、#FF0000が赤であり
青にするということは、その逆に感じ取るということだ。
つまり視点を変えれば、そしてそこから連鎖的に繋がる出来事から見れば
プラスだったのかもしれない。そしてプラスもマイナスもないことを知る。

あなたという世界感(HTML)では、経済的壊滅(#FF0000)は、悲観(赤)でweb表示される。
しかし青、そしてそれらは色などなく、単なる#FF0000であることを悟るのだ。


902:名無しさん投稿日:2013/06/17(月)20:08:53.76ID:RRnWO0uS[2/3回]

>>885
HTMLという枠組みを超える。
言うなれば、集合意識のもつ概念を超える!?
むずかしいです。



907:名無しさん投稿日:2013/06/17(月)21:59:51.30ID:3zw6ev1M[1/4回]

>>902
しかしそのHTMLすらも概念である。
個別のHTMLタグを発生させる「空間」であるが、
HTML自体が、上を見れば「OS」という空間の中の単なるプログラムである。

そしてOSの上にはまた「何か」があり、その上にも「何か」がある。
しかしHTMLタグのレベルからでは、それら「何か」は認識できない。

なぜならプログラムそのものが違うからだ。
CPU内部のアーキテクチャーにHTMLは存在できない。

このことから、最底辺レベルにあるのは、#FF0000を「赤」と表示する「概念」であり、
通常その概念に満ちた世界に我々はいる。


912:名無しさん投稿日:2013/06/17(月)22:22:00.52ID:3zw6ev1M[2/4回]

エックハルトトールが、「部屋」はそれ自体を指し示すことはできない。
壁や床、天井はあるが、それらは「部屋」を示しているのではない。
そしてその部屋に、机やタンスが配置されることで「部屋」という空間が生まれるのだ、とある。

その空間が「無」であり、どんな音にも、
それらが発生した時点で裏側の「沈黙」も生まれる。

ここからは私の解釈だが、
つまり「無」が最初にあるわけではないのだ。
さらに「部屋」という、カタチと同時に生まれた空間は、
「家」というさらに包括する空間の「有(仏教でいう色)」であり、
その視点からは「無」ではなくなる。家は「町」なりの「有」である。

つまりどこまで行っても完全な無など存在しないのだ。だが「無」は「無」である。

カタチと同時に無が生まれる(この表現は正しくないが)、
ということはカタチは無であるとも言える。
だから目の前のコップを消し去ることは可能である。
なぜならば「そこにある」ということは、「そこにない」を包括しているからである。

これが何を意味しているか。
つまり、「概念」を消し去れば、それ自体は認識できなくなるのだ。
感じるだけである。

例えば登山道の足跡を見て、また整然と干された洗濯物を見て、人の心を感じないだろうか?
例えば何もない窓辺に、以前置いてあった花瓶を感じることができないだろうか?


913:名無しさん投稿日:2013/06/17(月)22:40:03.58ID:3zw6ev1M[3/4回]

スピリチュアルに興味を持ち始めると
「無」という空間にビッグバンが起こり、「有」が生まれたと誰がも考えてしまう。
つまり「無」という日常に出来事が起こり、生命が生まれ、景色が視界に入り、
そしてそれらは再び「無」へ過ぎ去っていく。

だけども、何かがあるから、裏側にそれを支えるスペースがあるのだ、
と解釈したときに人生観がひっくり返るだろう。

もう一度書くが、「ある」は「概念」だ。
そして「概念」は、それ自体が存在するために「スペース」を発生している。

かるた、トランプなどと同じである。
1枚1枚、絵柄などが書かれているが、それら絵柄の背景には、
絵柄を描くための個別のスペースがある。
そしてそのトランプの束を置くテーブルがあり、(トランプ側から見れば、テーブルが空間、つまり無)
さらにそのテーブルを置いている床がある。(テーブルから見れば床が空間である)

これは何を意味している?
「無」も概念である、そういうことである。

では我々の概念世界で指し示される
「大いなる意識」「本来の自分」と言われる「無」は概念なのである。
ただし、ここで大きな発見がある。

「何かが配置される」ことで、そのスペースが同時に発生するのだ。
つまり、あなたという概念が世界に発生したから、
あなたの「今」という空間が常に発生しているのだ。

しかし前述したように「今」も概念である。
概念であるということは、#FF0000を「青である」と同様に認識することができるのだ。

あなたの世界はバラ色なのである。素晴らしいという意味でのバラ色だ。


914:名無しさん投稿日:2013/06/17(月)23:09:27.08ID:3zw6ev1M[4/4回]

つまりあなたこそが「無」である。実際は実在していないのだ。
だが「無」であるがゆえに、実在を「感じる」だろう。
なぜ感じるのか、「自分ここにいるじゃん、」となぜ思うのか
それは概念が作用しているからだ。

つまり概念を生み出す思考がなければ、あなたは実在を認識できない。
熟睡状態だ。だが厳密にいうと熟睡状態は「無」ではない。
なぜならば思考による「概念」がいないからである。それらは「対」の関係である。
では思考とはなにか。

思考が発生するためには、そのスペースが必要である。
つまり思考なり、すべての事象や物体、出来事は、無の上に成りなっている。
だが無というものは、単一では存在できない=存在を捉えることができない。
あえて語弊のある書き方をすれば、何かが発生したときに、
それに対応した無が発生しているだけのことなのだ。

しかし個別の「無」は、さらに大きな視野から見れば、無ではなくなる。
さきほどのレスに書いた、テーブル→床→部屋→家→町‥ というように
それ自体を包括する抽象レベルを認識した途端に、無たる空間は、有限のものへと変容する。

我々の瞑想は、個別の無を、一段だけ大きな視点から観る(感じる)ことで
無を有形化しているに過ぎない。ただしそれがヒントとなるだろう。

概念こそが、すべてを変容させるマジックであり、
誰もが、個々の描いた通りの世界を体感できるのだ。


916:名無しさん投稿日:2013/06/18(火)00:07:36.81ID:mSrS66Ms[1/1回]

「それ」という純粋無垢な何かは、ない。
「無」という空間に「有」が生まれ消え行くわけではない。

概念を与えたときに、それを投影するスクリーンような「無」が発生する。
その繰り返しである。
つまり「それ」があると思い込んでいるだけで、
概念を剥がしてみると、なんと何もないのだ。

外を歩けば、アスファルトに電柱に看板に通行人に自転車にと、
いろいろ遭遇するが、それらは「概念」を通してあなたは見ている。
そして一般的なスピリチュアル論では、概念を「通さずに『それ』を観れば」
純粋無垢な「それ」を感じることができる、と伝えられている。
> そして形あるものにしろ、出来事にしろ、
単一の「それ」が生まれるのが「無」である、とされている。

私はそうは思わない。
そもそも単一の「それ」は、概念を剥がしてみると、ないのだ。
なぜならば、概念とセットに「無」というスペースが発生するからであり、
概念を剥がせば「無」があるだけ。
ただし、無という共有空間があるのではない。

無は概念にくっついている。
「それを観れば概念が‥」ではなく、「観れば概念が‥」なのである。


917:名無しさん投稿日:2013/06/18(火)00:12:19.34ID:CL8fXihbs[1/4回]

よって、あなた自体が「無」である。


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