2020年12月27日日曜日

自分さん39 自分の体とは「世界」を堪能するための装置のようなものだ。

854 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/22(日) 01:55:15.59 ID:RpueZhFu

さて少し難解な話をしようか。

自分の体とは、あくまで「世界」を堪能するための装置のようなものだ。
つまり世界を知るために、あなたは生まれてきたのだ。

これは人間も蝶もエビも同じである。

なぜ世界を堪能する必要があるのか。
それは例えれば、あなたが美容室に行ったとしよう。
新しいヘアースタイルにトライしてみたわけだ。
あなたはそれがどれほどの美しさか、かっこよさか、可愛さか、
とても気になるわけだ。

ではどうやって、それを知るのだ?
もちろん他人の評価となる。

「あ、髪変えたんだ、可愛い!」と言われればあなたは大満足だろう。

ただそれだけのためにあなたは生まれ、人生を生かされているのだ。
まずそれを理解しなさい。

では一体「誰が」自らを知りたいのか?
それが「意識」やら「神」などというものだ。
つまりあなただ。そして私だ。
元はひとつなのだ。

自らの「可愛い!」を知りたいがために
他人なるものを作り出し、物質を作り出し、出来事を常に量産している。


ふふふ。このように書けば比較的ライトな受け取り方ができるだろう?


857 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/22(日) 02:12:51.33 ID:rKYNQxf/

話を続けようか。

「意識」というものがある。ひとつしかない。
そこから様々なものが生み出される。
あなたもそうだし、他の人々、物や日々の出来事もそうだ。

だが、元はひとつだ。
だから我々はコミュニケーションが取れるのだ。
そして思い耽ったり「想像」ができるのだ。
世界とは単に「意識」が作り出した箱庭でしかない。
箱庭の中のすべては、空想や想像で事足りるのだ。

そして「意識」こそがあなたであり、私である。
目の前のテレビですら、プラスティックですら、あなたなのだ。
さらに言えば、あなたが歩けば風景が変わるが
その「変化」すらも、あなたなのだ。

指が動く、それもあなただ。
あなた自身を「見ている」だけなのだ。

だから人生に何も苦しむ必要もないし
たとえそれが「苦」に見えても、それ自体が
あなたであるから、そのまま受け入れればよい。

人間的に何かを「失う」経験をするかもしれないが
実際は何も失っていない。ハズレもアタリなのだ。


858 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/22(日) 02:19:32.64 ID:rKYNQxf/

次に行動について解釈する。
日々は行動により移り変わっていく。

行動とは何か。
それはあなたの意思ではない。
そう思い込んでいるだけで体が勝手に動いているのだ。

あなたは「動いた後」でしか、それを知ることができない。
以前も書いたが、指よ動け!と頭で念じてみなさい。
動かないだろう。

だが実際に指が動いているとき、あなたはそれを見ているだけなのだ。
つまり、我々は次の行動が一体なんなのか、何も知らないのだよ。

ここで言う「我々」とは思考=エゴのことだ。
幻である。自分自身がすでに幻なのだ。そんなもの、ないのだよ。
ではその幻はなぜ、幻として体感できるのか。
それは「意識」があるからだ。

意識がそれを見ている。幻を生み出し、幻から見た世界を経験している。

最近は秋晴れで雲一つない青空が広がっている。
まるで世界を包み込んでいるかのようだ。
例えるならばそれが「意識」である。


859 :名無しさん:2013/09/22(日) 08:08:35.18 ID:ndMdem2U

想像は完全にマインドのものだよ。
そして幻想そのものだと言える。
想像に捕らわれる限り幻想からの解放はないだろう。
想像する事は偽りを見ることだ。

良いイメージであれ悪いイメージであれ幻想を見ているだけだ。



860 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/22(日) 09:48:52.20 ID:rKYNQxf/

>>859
上のは少し難解な話だ。
想像力どころか「いまにある」も五感もすべては
脳内の錯覚なのでマインド、いや、単なる事象でしかない。
問題は、その「想像」はどこからやってきたのか、
とうことを私は書いている。

何もないところにそれは浮かんでくるだろう。思考も同じだ。
さらに言及すれば、あなたが右を向いたときに
「右」らしき視界が突如浮かんでくる。
つまり、常に何かを作り出している。

いや、常に何かが作り出されており
我々はそれを受け取るしかできないのだ。

もはや、マインドがなんだとか
そういう話は何の解釈にもならない。
私から見れば、逆にその解釈に囚われているだけにも見える。

般若心経について様々な解釈が古来よりされてきたが
簡単に言えば「人生に特に意味はない」ということなのだ。
意味を求めるから苦しいのだ。

「それはマインドだ!」

そうあなたが唱えたところで、それは一体何かね?
先日も伝えたが言葉に内容はない。
ただ「それはマインドだ」という絵柄があるだけだ。


862 :名無しさん:2013/09/22(日) 10:37:41.14 ID:ndMdem2U

想像はどこからかやってきたものではなく、
脳内で創られたものだ。故に全て幻想だ。

何もないところには浮かんでこない。
既にある記憶を元に創られるのだ。

マインドで創られたものは実体を持たない幻想そのものだ。
しかし「在る」事はマインドを超えている。

マインドが停止した熟睡状態においても間違いなく「在る」のだ。
「気づき」とは主体がマインドの意識ではなく、
存在として「在る」状態に移行した純粋意識の事を指す。



863 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/22(日) 12:44:58.92 ID:rKYNQxf/

>>862
ほうそうかそうか。あなたがそう思うのならばそうなのだろう。
だがよければ、ひとつテストをしてみないか?
有名なテストだ。

いま、何でも良いから何か頭に浮かべてみなさい。
何でも良い。ラーメンでも海でも猫でも歴史でも。
とにかく一番最初に浮かんだものが、今回のテストでは必要なのだ。

さて思い浮かんだかな。

それはコケシ人形か?
たぶん違うだろう。
では訪ねよう、思い浮かんだのはなぜコケシ人形ではないのだ?

あなたは
>想像はどこからかやってきたものではなく、脳内で創られたものだ。

と言った。その「創られた」とは一体なんだ?
たまたま目に留まったラーメンの袋を見て「ラーメン」かもしれない。
それどころか、私に問われてそれに答えている。
つまりあなたの意思などないのだよ。

あなたの記憶が引き出されるとき、そのトリガーとなる出来事がある。
あなたが自分で作り出し、そのあなたのいうマインドとやら
結局は脳内で創っているのではない。

>何もないところには浮かんでこない。

何もないから浮かんで来るのだ。
例えばあなたの中心に音はない。だから音が聞こえるのだ。
あなたが音そのものであるとき、音は聞こえない。
あなたがマインドなど、その段階の話をするならば
たぶん、もう少し理解が必要かもしれない。


864 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/09/22(日) 12:51:44.73 ID:rKYNQxf/

我々が日頃「脳内で想像している」など当たり前と思っていることが、
実はとんでもないメカニズムだったと知るとき、
すべてはひっくり返るだろう。

見るという行為も、そもそも一体なんなのだ?
なぜ見なければならないのか。なぜ聞かなければならないのか。
では、それら以上の行為がないのはなぜか。

ある制限枠があるのは確かだ。
それは人間ゲームとしてのルールみたいなものだろう。
だがそのルールとて、我々がそのように思い込んでいるからそうなのだ。

見る、それがとんでもないメカニズムだったと知るとき

聞く、それがとんでもないメカニズムだっとと知るとき

すべてひっくり返る。


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