2022年6月8日水曜日

自分さん83「自由意思がない」ということに全く関心がなければ、自由なのだよ。

117 :名無しさん:2013/12/10(火) 16:39:35.82 ID:rQjyiU2j

自分さんのおっしゃってることは頭では、
ほんのうわべでは理解はしてるんだが。
うわべではね。



118 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/12/10(火) 16:51:50.57 ID:FmP3CWuO

>>117
地上から見て高いビルに「高い」と認識をしても
さらに高い建物から見下ろせば「低い」だ。
ビルは高くも低くもない。

つまり苦労も逆境もあるが、ままの様子ではなく認識者の色づけによる。

この手の話には、問題は問題にあらず
「あなたに問題があるのだよ」と私は常に言っている。
低い場所から見ている限りずっと「高い」ままだからだ。

仏陀が何を得たのかといえば、見る場所を変えたまでのことだ。
色んな位置からビルを見た。高くもあるし低くもある。

そこであることに気付いたのだよ。
そうか、高くも低くもないのだ、と。
つまり「あるがまま」を知ったのだよ。

多くの人は人生で一定の価値観が出来上がってしまう。
それが判断基準となるのだ。

なぜ判断をするのか。
「ただ在る」は一生懸命に考え抜いて努力を貫いて知るものではない。
何もしないとき、つまり肉体という自然現象にすべてを委ねたときに、
そこに在ると気付くのだ。



119 :名無しさん:2013/12/10(火) 17:12:46.51 ID:XS+VkxQa

そうなれるかいなかも真我の思し召しではないか?

自分の意思では気づけない。
そうしようとしたり、またはやめたりすんのも
我々の選択ではないだろ?

上のやられたらの”倍返し”も泣き寝入りも、
自分の性格傾向だって我々の意思ではないではないか?
人助けや犯罪だって勝手に起こるだろ?



120 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/12/10(火) 17:32:26.03 ID:FmP3CWuO

>>119
あなたは箱の中身を見ようとしているからだよ。
だからみんな、あなたと同じところで行き詰まってしまう。

見ようとしないことだ。ただこれだけのことだよ。
なにもないのだよ。真我もなければ自由意思もない。

まるで「真我」がスーパーリアルのように
扱われているが、真我すらも想念である。
真我という設定自体が「それ」を指し示す指だ。

さて、真我がないときたよ。あなたは何に召されているのかね。

いいかい。あなたは野球に興味があるかもしれない。
それは切っ掛けとなるような出来事が起こり、
あなたはそれに流れてきた。

だけども「無理して野球を始めた」のなら野球=苦だろう。
だけども「気が付いたら野球をやっていた」のなら野球に溶けている。

つまり「気が付くまで」野球を野球と対象していない。

だがね、野球がなくてもそれはそれで出来事なのだよ。
野球と出会わないというね。

あなたは真我や悟りについて求めているから
「これはこういうこと?じゃあこれは?」となる。
それは対象の先をそこに向けているからだ。

自由意思がなくとも「自由意思がない」と
気にすればあなたの通りの質問になるだろう。
だが「自由意思がない」ということに全く関心がなければ
自由なのだよ。わかるかい?


あなたはハエの生態に興味があるかね?
老人オムツの開発に興味があるかね?

対象を絞って知れば知るほど制限だが、知らなければ無限だ。


122 :名無しさん:2013/12/10(火) 18:44:24.19 ID:8Ua7ft1F

観念論ばっかりか。
生の暴力にさらされてる人間には無効だし
飢えや病気に苦しんでる人間にも無効だな。

ま、薬物で痛覚知覚をマヒさせることができたとしても
脱出はできてない。



128 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/12/10(火) 20:12:54.37 ID:FmP3CWuO

>>122
あなたがどれほどの肉体苦痛を与えられても
飢えていても、それは単なる肉体の風景だ。
細胞分裂に悲鳴を上げるのかね。

そして「あなたに実際に起こっていないこと」
それは風景だとわかるね?

あなたが「これはこうだ」という観念を生み出している
「スペース」に気付くようになりなさい。

なにがどうあろうとも、それはあなたではない。
あなたは体験そのものである。


123 :名無しさん:2013/12/10(火) 18:51:38.74 ID:yRsb+Ac0

思考がただの風景だと思い込めればいいけど、
つい小さなことでも判断する。それを捨て去るのか。
湧いてくる思考を捨て去るのか、ただ観照するのか。

でもエゴの世界では、他人の判断だらけだ。それも風景か。
最大の恐怖、氏を超越しなければ。



128 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/12/10(火) 20:12:54.37 ID:FmP3CWuO

>>123
最初は難しいだろう。
糸口を掴んでもすぐに見失ってしまうだろう。

だが何度も繰り返しなさい。常に意識的でありなさい。

椅子の感触、周囲の音、このように書かれて
「そういえばそうだな」と気が付くのではなく、
常にすべてに気付いていなさい。練習だ。


124 :名無しさん:2013/12/10(火) 18:58:19.29 ID:iLfCnxT7

実際の「それ」は、アイデンティティと共に在る為、
アイデンティティを感じていれば、やがて
「それ」に気がつくと言う事でしょうか ?



128 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/12/10(火) 20:12:54.37 ID:FmP3CWuO

>>124
アイデンティティとは分離された自己そのものである。

固執すると「それ」を掴めない。
もっとも必要のないものだ。自分を溶けさせるのだよ。


この世界で最も必要のないものは、
自分の主義や主張、追求、願望など「己」である。


129 :名無しさん:2013/12/10(火) 21:18:15.66 ID:iLfCnxT7

>>128
つまりこう言う事でしょうか!?
自己観察とはエゴを判断することであり、
自分を客観的に見る、第三者的に観察すること。

それに対して自己観照とは、観察のような主体と対象という関係はなくて、
つまり、観察している観察者はいないということかなと。
これが一般的な捉え方なのかも。

でも、クリシュナムルティが言っていた観察とは、
本当は観照の事でもあるんじゃないかと。

よく云われてるけど、全力? でケンカをしてる時にふと感じられるもの。
特に、マインドフルネス時にそれが現われ易いのかも。

もし、マインドフルネスでなければ、エゴ(思考)にまだ余裕があるので、
背後に、もう一人のエゴ(思考)が創り出されるのかもで、
そしてまだ余裕があれば、又もう一人創り出されるのかもと(汗)

つまりこれは、108氏の言ってる事と同じなんだと思います。

だからこれを止めるために思考を細部まで鮮明に、
そして無意識さえ自覚しょうとする、
これがいわゆるマインドフルネスだと思ったりして。

つまり、一瞬一瞬を自覚して行くことかなと
(ビバッサナーでは、初めは一瞬一瞬にラベル貼りをさせるとか)
そうすればエゴは遊ぶ余裕が無くなり、それだけに集注されて他への連想が止む。

これはつまり、
思考が浮遊しなくなる(一箇所に沈黙?) と言う点では、
トラタック(一点に沈黙?)と良く似ている!?
つまり、動的なトラタック瞑想ではないでしょうか
( http://www.sakshin.com/Meditation/Tratack.html )
やがて「それ」が現われやすくなるのではと思ったりして。

つまり「それ」とは、我々が真剣(一心不乱)なときに、
気付きとして偶然の様な感じで現われ出るもの !?
だいたいこう言う事に成るんでしょうかね (汗)



131 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/12/10(火) 21:41:14.32 ID:FmP3CWuO

>>129
まず、思考を思考が眺めていること。
思考を超えるということは何も体験できないということ。
思考の知らないものは想像すらできないということ。
この3つが原則だ。

そしてあなたが花を見る。
これは「花を見ている」ということを「考えている」だけだ。

つまりすべての行為(見る聞く感じる味わうなど)は、
そういう行為を言葉で括っているだけであり、
事実とは「考えている」だけなのだよ。


「見たこと」を考えている。
「聞いたこと」を考えている。

つまり五感とは思考である。
思考がなければ五感を立証しない。

目の前にガラスのコップがある。

「彼」は寒いのだろうか?
「あなた」がコップを触ると冷たい。
それは思考だ。感触ではない。

だがコップには思考がない。
だから彼には「冷たい」もなければ「自己意識」すらない。

つまり究極とはコップになることだ。
コップは自らコップであることすら知らない。
いわゆる「真我」と同じだね。
思考がないから「寒い」という体験すらできない。

さて。我々は漂う思考である。
「それ」という空間に漂っている。

空間にはあらゆるものが変化をしながら漂っている。
そしてすべてが繋がっている。

繋がるとは物理的な意味ではなく、
赤は赤以外があるゆえに存在できるように互いを補完しているのだ。

あなたが損をすれば誰かが得をしている、
あなたが金を得れば誰かのキャッシュが減る。

単一の思考だけの目線では増えた減ったの世界だが、
空間からすれば増えも減りもしない。

だが思考を超えると何も体験できない。
だから「それ」は思考を生んだ。
いや生んだというより思考ができたから
「体験」が生まれたのだ。


希望や絶望などの感情も体験だ。
色や形を認識するのも体験だ。体験は思考がベースだ。
これが理解できるかな。

どんなに「ワンネス」「悟り」「観照」が
素晴らしく思えても所詮は思考の枠内なのだよ。

大切なのはクリシュナムルティや仏陀や私のようなデタラメに
振り回されることではなく「何もなかったんだ」を知ることである。

「苦しみ」も「苦しみを超えた」も体験だ。
同じベクトルなのだよ。そういうことに気付くのだ。
悟りなどないことを悟りなさい。


135 :名無しさん:2013/12/10(火) 22:04:49.09 ID:iLfCnxT7

>>131
全ては脳内現象ということですね。
ありがとうです。



138 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/12/10(火) 22:18:26.22 ID:FmP3CWuO

>>135
ひとつ教えてあげよう。
「脳」を知るのは「脳」だとする。
一般的にはそうだね、脳が思考や記憶を司っているとされている。

では脳など実在していないとしたら、あなたはどう理解する?
今日も書いたが真我に司られて自由意思がないという人が多い。
だが真我も想念だ。では一体に何に司られて自由意識がないのか。

この問答を超える必要がある。
脳は脳を知ることはできない。
だから脳を設定しその役割を知るものがあるのだよ。

思考が思考を見ていると私は書いたが、それは方便だ。全部方便だ。
コップは自らコップであることを知ることはできない。
この文面で気付きなさい。

いいかい、赤は赤以外があるから赤を立証できるのだよ。

「それ」とは何か。
「それ」があることを何千年も前からなぜ知っているのか。
「それ」の側面が体験である。
体験があるから「それ」が浮かび上がる。

矛盾とはなにか。
矛と盾が同時に壊れたとき互いの主張は力を失う。
そのとき何が残るのか。

「それ」だ。



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